『寺子屋、福先生のつぶやき④ ※らいとPLAZA11月号に掲載

   子育ての悪しき習慣 パートⅡ

前回は、悪しき習慣、禁じ手③の「比べる」を取り上げました。今回は、残りの禁じ手について、紙面の許す範囲でお話しします。

過干渉による自立の遅れ

我が子にあらん限りの愛情を注ぐのは当然のことです。そのことは昔も今も、また、子沢山であろうが少子化であろうが関係ありません。しかし、深い愛情と過干渉は全く異質なものです。過度の干渉が愛情であるとの認識は改めなければなりません。

では“かまいすぎる”結果、子どもはどうなってしまうのでしょう。当然のことながら自立が遅れてしまいます。自立が遅れると主体的に判断する能力が十分に育ちません。私の経験ですと小学2年生ともなれば、自立の欲求が高まり、主体的に判断し行動しようとする意欲が顕著となります。子どもの発達状況にはそれぞれ違いはありますが、健全な教育環境にあれば、小学生時代に多くの子が自我に目覚め、自主自立の精神が育ち、自分の意志で様々な課題に挑戦し始めます。さらに、自らの才能にも敏感になり、好きな事や得意なことに対して極めて意欲的に取り組むようになります。ですから“過”干渉は豊かな才能を引き出すためにも大きな障害となります。親や教師はこのことを肝に銘じて、「かまいすぎない」ことに徹する必要があります。

決めつけられる恐怖

子どもは、親が考える以上に、親の言葉に敏感です。特に否定的で断定的な言い方により、子どもは委縮し絶望します。まずは我が子の人格を認め、肯定的、受容的に子どもと接しましょう。子どもの話に真摯に耳を傾け、話し上手ではなく聞き上手を心掛ければ、我が子の心は解放され安堵感にあふれるでしょう。

親にけなされる絶望

 “けなす”とは、悪口と同義語ですから親にけなされては身も蓋もありません。家庭が安心・安全の居場所であり続けるためには悪口の応酬は避けねばなりません。悪口はいじめや不登校の大きな要因でもあります。“悪口を言わない習慣”を身につけましょう。

こだわりを捨て我が子を解放せよ

「こうであらねばならない」とのこだわりも場合によっては必要ですが、我が子であるゆえの“こだわり”は避けた方がいいでしょう。わが子は「親のもの」との“こだわり”を捨て「社会の宝物」と考えるべきでしょう。わが子が将来、立派な社会人として自己実現を果たし、幸福な人生を歩むことを望むのであれば、必要最小限の制約の中で、自由にのびのびと育てることが大切です。